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世界に1200万人以上いると推定されている無国籍者だが、その存在はあまり知られていない。無国籍とはいったいどのような状態のことなのだろうか。NPO法人無国籍ネットワークの代表であり、早稲田大学国際教養学部教授の陳天璽(チェン・ティエンシー)さんにお話を伺った。

無国籍とは何か

「無国籍とは、個人と国家が紐づけされていない状態です。法的にどこの国家にも属さない人もいますし、ID(身分証明書)上ではある国の国籍となっていても、それが無効だったりするケースもあります。それから、もう一つ別の次元の話として『在留資格(注1)があるか、ないか』という違いがあります」

※注1 在留資格:日本に入国・在留する外国人に対し、その外国人が行う活動の内容などに応じて付与される一定の資格を指す。
参照:在留資格一覧表 | 出入国在留管理庁 (moj.go.jp)

戦争による母国の消滅。迫害による国籍のはく奪。国籍法の差異。こうした理由で無国籍になった人が「法的にどこの国家にも属さない無国籍者」だ。また、例えば居住国のID上にベトナム国籍と書いていても難民2世のため、ベトナム本国に出生届が出されず、国民として認められていないケースもある。さらに、在留資格の有無により無国籍者の就労条件は大きく異なる。在留資格があれば、基本的に他の外国籍の人と同じ扱いを受けるが、在留資格がなければ「非正規滞在者」として扱われる。

「一口に無国籍といっても色々なタイプの人がいるんです。」

そう陳さんは語った。

どこの国にも入れない

実は陳さん自身も、日本国籍に帰化するまでの約30年間、無国籍者だった。両親は中国にルーツを持つ華僑(注2)で、第二次世界大戦後に台湾へと渡った。その後、日本へ移住。陳さんは横浜の中華街で生まれた。しかし、1972年に日本が台湾と国交を断絶。陳さん一家は、日本国籍に帰化するか、中国国籍にするか、あるいは移住をするかを迫られた。いずれの選択に対しても抵抗があった陳さんの両親は、無国籍になることを選択した。だが、彼女自身は10歳になるまで自分が無国籍であるということは知らなかったという。

※注2 華僑(かきょう):中国国籍を保持したまま、長期的に私的に中国領土外の土地や国に居住する人々のこと。
参考:華僑とは – コトバンク (kotobank.jp)

「台湾に行くときに使っていた再入国許可証の国籍欄に『無国籍』と書いてあって何か変だなとは思ったんですけど。ずっとチャイニーズとして育てられてきたので、その時はあまり意味が分かりませんでした。」

無国籍という文字が何を意味するのか。身をもって理解したのは、それから11年後だった。陳さんと両親はフィリピンを訪れた帰りに急遽、台湾に寄ることにした。お母さんが、台湾で働く陳さんのお兄さんに会いに行こうと言い出したのだ。両親が先に入国し、陳さんも台湾のパスポートを入国審査官に差し出す。しかし、「ビザがないから入れない」と言われてしまった。台湾に住んでいたことのある両親は戸籍登録がされており、ビザが必要なかった。だが、日本で生まれ育った陳さんは台湾のパスポートを持っていても「外国から来た人」として扱われた。いや、むしろ外国籍でもビザが不要な人もいたから、それ以下の扱いをうけたとも言える。ショックを受けながらも、やむを得ず1人で先に日本に帰国することになった。

しかし、生まれ育った日本でも入国を拒否された。「再入国許可書が切れているから、台湾に帰ってください。」と言われたという。当時は永住権を持っていても、再入国許可が必要だった。本来は、期限が切れていたら出国できないが、なぜか陳さんはフィリピンに出国することができていた。当時を振り返り、

「体の中が煮えかえるような気がしたし、喪失感がこみ上げてきましたよ。私はどこにも帰れないんだって。自分が埃のように感じました。私にはどこにも居場所がないんだと。どこからもいらないと言われている気がしました。」

と語った。

感情をあらわにしても、審査官の対応は機械のように冷たい。双方のやり取りが噛み合うことは無かった。そこに、別の入国審査官が声をかけてきた。陳さん一家の出国を見送った人だった。実は、彼が再入国許可証の期限が切れていることを見落としてしまっていたことが分かった。あわてて特別な形で手続きが行われ、無事入国することが出来た。しかし、もし審査官が陳さんを覚えていなかったら。声をかけていなかったら。彼女は国境の狭間で佇み続けるしかなかったかもしれない。

自分が研究するしかない

その後も無国籍ゆえに直面する壁は多かった。海外に行くには膨大な書類が必要で、友人との卒業旅行には行けなかった。そうした苦悩を一つ一つ乗り越えながら、研究者としての道を歩みだしていた陳さん。しかし、無国籍について研究することは避けていたという。著書『無国籍』の中で、その理由を「心の傷に自分で塩を塗りこむようで抵抗があった」と表現している。ただ、自分の無国籍者としての経験を友人に話していくうちに、気持ちが変化していった。

「調べてみたんですが、無国籍に関する研究はほとんどありませんでした。ハーバードの図書館にも全然なかったんですよ。日本語で無国籍と検索してみると、たくさんヒットしたんですね。でも内容を見ると「無国籍料理」や「無国籍居酒屋」、「無国籍映画」でした。それで自分で研究するしかないと思ったんです。」

沖縄でアメラジアン(*主に在外米軍兵と現地女性の間に出来た子供を指す。国籍法の違いから無国籍となる子供が多かった)の実態を調査するなど、無国籍に関する研究を積み重ねていった。

そんなある日UNHCRから、陳さんに無国籍者に関する相談がきた。陳さんのインタビューが掲載された新聞記事を見てコンタクトを取ってきたそうだ。その後、半生を綴った著書『無国籍』を出版すると個人的に相談に来る人も増えたという。

「意外にも相談したがっている人は多いんだと気づきました。自分も昔、相談できる場が欲しかったですし。当時は弁護士ですら、よく分かっていなかったんです。」

居場所を作る、伝えていく

2008年にシンポジウム「無国籍者から見た世界 現代社会における国籍の再検討」を開催。これをきっかけに翌年、⁽³⁾無国籍ネットワークを設立。多くの人が賛同の意を表し、弁護士なども参加した。無国籍問題に取り組む団体は、世界的にも画期的だった。UNHCRが本格的に無国籍問題に力を入れだしたのも2014年である。

活動の軸は3つ。無国籍者の法律相談。周知活動。そして、何よりも気軽に無国籍者が色んな人と繋がれる場を作ること。無国籍ネットワークが開いたイベントをきっかけに、パートナーを見つけた無国籍者の方もいる。

昨年、無国籍ネットワークが設立して10周年を迎えた。そして、陳さんが早稲田大学で教鞭を取るようになってから、学生団体、無国籍ネットワークユースも発足した。これからの展望をうかがうと、「早くバトンタッチしたい」と笑いながら言った。

「昔は、『無国籍って知ってますか?』と授業で聞いても、何もイメージが湧かないとか、法を犯した人という答えが返ってくることが多かったんです。でも、今は少し具体的に分かっている人も増えていると感じてます。TVやドキュメンタリーで知った、難民に関する授業で知ったという人が増えました。これからは絵本とかを作って、年齢の低い人にも浸透させていきたいですね。新しいデバイスに対応して色んな活動をできる世代が、広めていって欲しいと思っています。」

国籍の有無にかかわらず誰もが幸せに暮らせる社会は、果てしなく先にあるかもしれない。それでも、陳さんが蒔いたタネは確かに芽をだし、ゆっくりと育ち続けている。花を咲かすことができるか。未来は若者に託された。

⁽¹⁾UNHCR日本、「無国籍者」、https://www.unhcr.org/jp/stateless (最終アクセス日:2022年2月28日
⁽²⁾外務省、「2019年6月調査統計 国籍・地域別 在留資格(在留目的 別 総在留外国人」https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&cycle=1&year=20190&month=12040606&toukei=00250012&tstat=000001018034&tclass1=000001060399&stat_infid=000031886381 (最終アクセス日:2022年2月28日)
⁽³⁾無国籍ネットワーク、https://stateless-network.com/ (最終アクセス日:2022年2月28日)

参考文献
・「移民がやってきた-アジアの少数民族 日本での物語-」、山村淳平 、陳天璽 著、現代人文社、2019
・「無国籍」、陳天璽 著、新潮文庫、2011

※本記事は2020年6月19日にPaco Mediaに掲載された 「#2【連載】国籍のない人たち 「私は無国籍だった」」の記事を編集、加筆しました。


執筆者:鳥尾祐太/Yuta Torio(2000年神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科4年。ロヒンギャ問題を扱った写真展の運営に関わったことをきっかけに、ロヒンギャ問題、無国籍問題の取材を始める。)

編集者:森青花/Aoka Mori

yomcottmedia
yomcott.media@gmail.com

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