/違和感ポイント/
日常で差別されていると感じた時、どう行動するのが「正しい」のだろうか?築き上げたものがあるからこそ、異質なものを嫌ってしまう。それでも僕は、分からないものを排除してしまうのではなく、歩み寄れる社会を信じている。

最寄駅のエスカレーターを降りると、広場で『鬼滅の刃』について盛り上がっている小学生たちがいた。この辺でよく見かける仲良しグループで、艶やかな黒髪の子たちの中に、ラプンツェルのような黄金色の髪をした子が1人混じっている。 

つい昨日の朝も、家を出ると、タガログ語と日本語をちゃんぽんにして話す幼稚園児がテクテクと母親の手を握って歩いていた。 

最寄りのスーパーでレジが詰まっているので、何事かと覗いた先で「袋はいりますか?」の意味がわからずに苦戦していたのは、イギリスから来たという留学生だった。ちなみにレジを担当していたのは、この店で一番丁寧な接客をする中国人のお姉さん。

この街に越してきて8年。これといって派手なことは何も起きないけれど、様々な色で彩られた街の空気感を、僕はなかなか気に入っている。 

しかし、そんな折、「この辺はガイジンが増えて困る」なんて声に耳をつんざかれそうになったり、外国語で電話をしている人を睨む光景に出くわしたりしてしまうのも、残念ながら事実だ。 

少し厭世的なところがある僕は、そういった言動を見聞きする度、ある夏の1日を思い出す。 

とても不快だったけれど、忘れてはいけない一日だ。 

本人提供

「静かにしてもらえませんかね?」 

学生の頃、バイト先のゲストハウスで、あるドイツ人のお客さんと打ち解けた。彼女はバックパックを背負って、アジア中を旅しているのだそうだ。 

「今日はこんなカツ屋さんを見つけたの!すごくローカルな感じで素敵だったから気になってるんだけど、 一緒に行かない?」と言う彼女の誘いを僕は二つ返事で快諾し、次の日に早速出向くことにした。 

グーグルマップを頼りに進む彼女について行った先に佇んでいたのは、昭和の映画作品にでも出てきそうなレトロな風貌のお店だった。中に入ってみると、小さなL字カウンターの周りに10席ほどの作りで、その「ザ・江戸の下町」な雰囲気にちょっぴりときめく。

「2人?まぁいいけど..」 

入店するやいなや、厨房に立つ店主にそう言われ、その無愛想な声色におずおずと僕たちは席に着く。「まぁ常連さんが多いからだろう。下町だし仕方ない」と僕は1人で納得し、2人分の注文を済ませた。 

間も無くして出てきたほくほくのカツは、期待していた以上の絶品。「こりゃ美味い」と絶賛していると、 店主が睨むような目つきでこちらへとやって来る。 

「ここはご飯を食べるところだから、静かに」 

「え、あ、すみません」 

少し驚いたが、そういうものなのかと思い、彼女に言われたことを伝えると「おっと」とイタズラに微笑み、その後は2人で黙々と食べ続けた。美味し美味し。 

…しかし、問題はここから。 

僕の隣の席では、常連と思わしき人がテーブルの上に小銭をブワッと袋から出し、店主の奥さんと何やら談笑しているではありませんか。 

「おや?これはいいの?」と思い店主の方を確認すると、彼は店の隅の席で別のお客さんに「どこからいらしたんです?」と気さくに話しかけていた。 

「え?私たちなんで怒られたの?」と目を丸くする彼女に、肩を竦めて「機嫌が悪かったとか?」と適当に返すと、すかさず店主が強面な表情でやって来る。 

「兄ちゃん。さっき言ったよな?ここは会話禁止だって」 

そこに、いつの間にか厨房に移動していた奥さんが加勢する。 

「何回も言ってるのにね。全く…」 

…疑心は確信に変わった。そう、僕たちは今、差別されている。

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悲しい笑い声 

これは常連さんじゃないからでも、何か知らぬ間に僕たちが粗相をしたからでもない。外国語で会話することで、ここに「異国の風」を吹かせてしまったからだ。 

思わず表情に出た僕をみて「どうしたの?」と聞く彼女。なんとか明るい声色を絞り出して「後で話すね」と言うと、彼女は「オッケー」と言って味噌汁をすすった。 

会計時に「次は他のところへ」と言うトドメの一撃をくらい、僕らは店を後にした。シニカルに努めていた僕だったが、流石に「そうします」と強めに返してしまった。 

その後カフェを探し歩きながら、彼女に店で実際に何が起きていたのかを伝えると、その反応は感情的になった僕とはまるで違い、とてもさっぱりとしたものだった。 

「まぁ私が外国人だからだよね。それはなんとなく理解できる。でも入れてくれたんなら、食事も楽しませてくれたっていいと思わない?『外国人は栄養摂取のみ』とでも書いといてくれればいいのに」 

不条理でさえも一笑に伏す、こう言うぴしゃりとしたユーモアが僕は好きだ。 

旅の経験が豊富だということは、色々な文化に触れて来たということでもある。 

多様な世界を覗いて来たからこそ、アウトサイダーである自分と、その地に根付いたコミュニティや文化との上手な距離の測り方を、彼女は知っているのかもしれない。 

けれど、意地悪な “おもてなし” を一笑に付したその声は、それでも少しそうだった。

机上の空論だと分かってはいても 

もちろん、自分の属する世界に、分かりやすい形で異国の風が吹き込むことを執拗に嫌う人がいるのは、日本に限った話ではない。 

色々な時代で、色々な場所で、色々な規模で、色々な形で、人は自分の属する世界が揺れることを恐れ、他者を拒んできた。「排他的な帰属意識」というのは、古今東西のあるあるなのだ。 

今思えば、彼女の住むドイツは、難民を多く受け入れている国でもある。彼女は外国人という理由だけで、誰かが差別される現場を数多く見てきたのかもしれない。笑い飛ばすしかない、と悟ってしまうほどに。

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他者をはねのけることで受け継がれてきたものがあると言われれば、それも事実なのかもしれない。生まれてからずっと、特定の文化や伝統に大きなアイデンティティを据えて生きてきた訳ではない僕が、「多様性を恐れることは100%悪だ!」と鋭利な言葉で思いのままに批判していいのかも、正直、わからない。 

あの日、店主に毅然と言い返す気になれなかったのにも、そんなどっち付かずな理由があった。 

「あちらを立てればこちらが立たず」が常の社会では、絶対的な解がないからこそ、どれだけ視野を広げて考えてみても、衝突する現実が星の数ほど存在する。 

けれど、歴史を丁寧に辿っていけば「単一民族」と誇張されがちな日本にも、民族的な多様性があることがすぐにわかるように、社会というのは既に多様性に富んでいたりする。 

必死に“違う”ものから守ってきたつもりのものは、往々にして初めっから“違う”ものありきなのだ。 

そして何より、すぐそばにいる誰かを“違う”という理由だけで隅っこに寄せる人の姿や、「同じ」「共感」 という制約に縛られた窮屈な営みは、僕の瞳には虚しくて虚しくて仕方がない。 

だから、正解なんてないと分かっていても、机上の空論だと分かっていても、敢えて声を大にして言うし、 敢えて喜怒哀楽を表現するし、敢えて文章に書き起こす。 

「多様性を恐れることなかれ」 

共感できるものだけを愛する世界より、分からないものに歩み寄ることを楽しめる、寛容から生まれる愛のある世界を、僕は信じたい。 

そして、きっと自分の中にも存在する“制約”に抗い続けたい。

※本記事は2021年2月24日にnoteに掲載された 「差別をされた日、僕は素直に怒れなかった。アイデンティティの光と影」の記事を再編集しました。

執筆者:林慶/Kei Hayashi
編集者:清水和華子/Wakako Shimizu

執筆者の情報:らいたぁ。関心:言葉・ Z世代・エシカル消費・ジェンダー表現とか。Twitter: Kei_So_Far

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