違和感ポイント:第3者として、セクシャルマイノリティの人に出会った私には、沈黙を保つことでやりすごした過去がある。その思いが自分に向きかけた時、「逃げる」ことを選んだ。自分の中の、差別や無意識の偏見に気づいた今、私はどう行動するのがいいのだろうか。

I don’t support it.

※以下の文章には同性愛者に対する偏見を含む発言が含まれています。

2018年、高校1年生だった私は米国に住んでいた。

“Theybies”(=新生児に対して “he”や“she”ではなく“they”というプロナウンを使うことで特定のジェンダー規範に結び付けることなく子供を育てようとする考え)なんていう言葉が出てきたこの年、日本にいたころよりも確実に、LGBTQ+やセクシャルアイデンティティといった言葉を聞くようになっていった。

学校のチアリーディングチームには、夏休み明けから15センチのヒールで登校してくる男の子もいたし、レズビアンと公認してパートナーとの惚気話をしてくれるスタイリッシュでかっこいい女性の先生もいた。

最初は「もしかして先生今、“wife(妻)”っていった?」と戸惑っていたクラスメートも、数日も経たないうちにそんな疑問は忘れたようにふるまうようになっていった。

ヒールで登校していたチアリーディングチームの男の子に対しても、最初は「男のくせに」とか「見たかよ、あいつの格好」なんて言ういじめっ子もいたが、あまりにも堂々としたその男の子の態度に、陰口をたたく方がかっこ悪いとの見解が広まって、いじめっ子も発言を控えるようになった。

「新たな」価値観に最初は戸惑いながらも、「あなたはあなただもんね」と受け入れていくこの国の“懐の深さ”を垣間見た気分だった。

…. と思っていた。

そんなある日、ミア(仮名)というエジプト出身の友人から相談を受けた。

「ナタリー(仮名)に告白された。どうしていいか分からない。」

ナタリーは、同じ友達グループにいたブロンドヘアーのアメリカ人の女の子で、自身をバイセクシャルだと公言していた。ミアとナタリーは非常に仲が良く、ナタリーが友達としての好意以上の感情をミアに抱き始めても不思議ではないなと思っていた。

ミアは、茶色と金色が混じったようなとてもきれいな目をした女の子で、非常にモテた。同じグループにいながら、常に男の子の目線をかっさらっていた彼女に私が嫉妬してうじうじしていたのは、ここだけの秘密である。

ともかく、ミアが誰かに告白されるのは日常茶飯事で、特に気にしていなかった私は、気軽にこう答えた。

「いいじゃない。いい子だし。今誰とも付き合ってないんでしょう?」

するとミアはこう答えた。

「でも私は、(LBPTQを)サポートしていないの。女の子から告白なんてありえない。」

彼女は、親が敬虔なクリスチャンであったため、私が何も考えずに、「わーいハロウィンだー!」なんて浮かれて、trick-or-treat (仮装して、トリックオアトリートと言いながら近所を回ってお菓子をもらうこと)と近所の家を回っていた時も、「私は、家にいるね」と一緒に来なかった。(「仮装は悪魔を崇拝することに繋がる」として、宗派によっては、ハロウィンを祝うことを良しとしない。

福音主義などの保守的なクリスチャンは、同性で性的な関係を持つことや同性結婚をすることは「神の創造的な意図にそぐわない」として、同性婚に反対するケースもある。

ハロウィンを祝うのも控えているミアは、同性結婚や同性愛というのは許されるものではなかったと考えていた。その対象に自分がなった時に戸惑ってしまった様子だった。

宗教的な価値観も個人のセクシャルアイデンティティもどちらもリスペクトすべき価値観で、私が勝手にしゃしゃり出ていい話ではない。

結局私は何も言えなかった。

英語で、重大な問題があるのに敢えて話題にしないことを“There is an elephant in the room (部屋にゾウがいる)” と表現することがあるが、まさに2人の相反する価値観をゾウとして扱ってしまったのである。

しばらくすると告白したナタリーは、年上の男の子と付き合い始めていた。そして、私達の関係は、告白の相談を受ける前の通りになっていた。

私達はお互いが感じた違和感を封印して、元の通りにふるまうことを選んだ。波風を立てるトピックには触れないことを選んだのだ。

もしかしたら、この国を覆うのは、「『あなたはあなただもんね』と受け入れる寛容さ」ではなくて「波風を立てるトピックには、意見をしない逃げ」「ゾウはゾウのままにしておく、ポリティカルコレクトネス(=政治的に適切な用語や政策を支持する態度のこと)的な価値観」だったのかもしれないと思うようになった。

“懐の深さ” とは一体何なのだろうか。

写真=Unsplash イメージ図。

あかねみたいな子がタイプだよね

その年に日本に帰国した私は、女子校に編入して、体操を始めた。

一番へたっぴながらも同期と楽しく、体操に明け暮れていた。

写真=Photo AC イメージ図

大学に入ってからも同期の5人とは交流が続いていた。全く別々の進路であまり会うことがなかった私達も、会った時には学校やバイト、彼氏の話などで花を咲かせていた。

そのうちの一人(A子)が、「彼女が出来た」と報告してくれた。

米国にいた時はバイセクシャルやレズビアン、ゲイのクラスメートが数人いた。しかし、日本に帰って来てからは、自分のセクシャルアイデンティティを公言するセクシャルマイノリティの知り合いがいなかったこと、また話してくれた相手がとても近しい友人だったことから、最初は少し驚いた。

しかし、セクシャリティアイデンティティの違いなどを「普通」だと少しづつ認識できるようになった社会で育っている私達だ。同期が彼氏の話をする流れで、A子も彼女の話をするようになっていた。

しかし、そんな日常を揺るがす出来事が起きた。

その5人で泊まりに行った時のこと。A子が私の写真を撮り始めた。

「あかねかわいいね。新しい髪型似合ってる」と褒めながら、写真を撮ってくれた。

すると、別の友人がこの一言を放ったのである。

「A子は、あかねみたいなふわっとした雰囲気の女の子がタイプだよね」

女子校上がりだからかもしれないが、私達の距離感は、非常に近かった。

腕を組みながら歩いたり、お互いの写真を撮りあったり。

それでいいのだと思っていた。

しかし、急に挟まれたこの「タイプ」という言葉に違和感を覚えた。

もし、A子が私を恋愛対象、性的対象としてみていたら「友人」ではいられないのだろうか。

後から気づいた事だが、この友人の発言は「バイセクシャルの人は、異性も同性もいとも簡単に恋愛対象として見ている」という偏見に基づいている。

この発言を投げかけられてドギマギしてしまった私も、きっと似たような偏見を持ってしまっている。

また別の日、A子が私と昼食を食べている写真をインスタグラムのストーリーに載せた。

その後で、「やばい、彼女もストーリー見たっぽい。消さなきゃ」と言われた。

「親しい友達」設定(インスタグラム上で一部の人だけがストーリーを見れるようにする機能)にし忘れて投稿してしまったため、A子の彼女も見れる形になってしまっていたのだ。

ここでもまた違和感を覚えた。

「友人」と思っていても「嫉妬される相手」になってしまうこともあるのか。

彼女ができた男友達となんとなく距離を取るように、私もA子から距離を取り始めた。

「今までの友人関係ではきっといられない。」

そんな風に頭で決めつけて、結論付けてしまった。

本来ならば、A子のそのような発言に戸惑ったことを伝えるべきだった。代わりに、私は、A子のセクシャルアイデンティティを「自分が意見してはいけないもの」として「部屋の中のゾウ」にしてしまった。

今までは「普通」の子として扱っていたのに、セクシャルアイデンティティを公言してくれた後は、そうではない人として扱ってしまっていたことに気づいた。

避けるようにふるまってしまったのは、きっと「無意識の差別」が私の中にあったからだ。

大好きだった友達を、「自分とは違うもの」として、脳内処理してしまったのだ。

私とA子に「タイプ」という言葉を投げかけた友達と同様、私自身もA子に偏見を抱いてしまっている。

「ゾウとして沈黙すべきもの」として、離れてしまった。離れることでお互いを理解しあう道筋を絶ってしまった。

これは、差別を公言することと同じくらい危険なことだ。

ミアとナタリーの時のように、「ゾウ」として、蓋をしてふるまうことはできる。ミアは、自分の価値観を伝えないまま、お互いの世界が交わらないようにすることを選んだ。

でもやっぱり、私はA子のことが友達として、一人の人として、大好きだ。

伝えないままでは、お互いをより理解したり、友達関係を続けたりすることは出来ないのではないか。

もう、ゾウはゾウのままではなくなった。今こそ私は自分の中の無意識の差別と、そしてA子と向き合わなくてはならない。

イメージ図。2021年12月15日、本人撮影。

執筆:中川茜/Akane Nakagawa 

(外部ライター。東京都内在住の大学生。大学では経済学を専攻。興味分野は、ルッキズムやジェンダー、環境問題。)

編集:清水和華子/Wakako Shimizu、原野百々恵/Momoe Harano、袁盧林コン/Lulinkun Yuan

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